富士登山駅伝競走大会ってどんな大会?

富士登山駅伝競走大会は、世界各地で開催されている山岳駅伝大会の中でも、標高差3,199mと最も高低差の大きな駅伝大会となります。また、この大会は平2成年8月2日に秩父宮家より特別のご配慮による賜杯を賜りました。開催は毎年8月第1日曜日。スタートは御殿場市陸上競技場、折リ返し地点は富士山山頂の浅間神社となります。選手は浅間神社で折り返す際、たすきに印を押してもらいゴールを目指す。他チームはもちろん自然環境も対戦相手となり、距離・標高差に加え酸素濃度の低さなど、過酷な状況下で行われます。参加チームは、日本全国各地から約140チームが集結し、富士山で「たすき」を受け渡しながらの熱いレースが行われる山岳駅伝大会です。


第一回大会スナップ(大正2年)

初めての富士登山競争

歩いてでも富士山の頂上を極めるのは苦しい。それを駆けあがるという、夢にも思わないことが企画されつつあった。大正2年7月のことである。時事新報社が主催し、出発点は御殿場口太郎坊、決勝点は富士山頂と決められた。この御殿場口は砂走リで登りにくい上、温度差は20度以上、八合目からは傾斜35度以上の急勾配であり、希薄な酸素にも悩まされるという、実に苛酷な状況下のレースである。この大会には全国から1,142人の応募があり、その中から14名の選手が選抜された。この時のスターターは金栗四三、優勝したのは伊達勘太郎で、頂上まで2時間38分で駆け上がった。彼は人力車夫をしながら商業高校に通う苦学生であった。

頂上往復マラソンの先駆け

第1回箱根駅伝が行われた2年後の大正11年、東京学生マラソン連盟の主催で、初めて頂上往復マラソンが行われたこの日は快晴に恵まれ、13名の選手が朝7時に太郎坊を出発、頂上を折り返して御殿場駅にゴールした。沿道には地元の青年団、児童・生徒をはじめ大勢の人達が列をなして応援したという。ところが、下山の途中で明治大学の選手が、炎暑と疲労から倒れ意識不明となる事故が起こった。このコースの距離は35kmにも及ぶことから、選手は1週間前から登山練習を行って大会に備えてはいたが、往復独走のレースはやはり大冒険であった。そこで、翌12年から1チーム5人の駅伝方式に切り替え、以降はこの方式か継承されている。

富士登山マラソンのメダル(昭和6年)

地元選手の初参加

大正13年の大会から初めて、地元の青年団と御殿場実業学校の参加が認められた。この日のために満を持していた強力の梶房吉の組が優勝し、御殿場実業が2位という成績であった。翌年は学生連盟が優勝したが、大正15年には地元御殿場青年団が初めて優勝した。これを契機に2年後、御殿場でもマラソン連盟が結成されたのである。

テープを切る地元の伊倉選手(大正14年)

富士登山競争の華ざかり

昭和6年は登山駅伝が始まって第10回ということで、大変な賑わいをみせた。全国学生マラソン連盟が主催し、報知新聞と富士登山営業組合が特別協賛となった。このとき学生連盟が出した4時間33分30秒は戦前に行われた駅伝での最高記録である。昭和9年から11年には地元玉穂青年団が3連覇するなど隆盛を誇った大会も昭和13年の武運長久祈願富士登山マラソンを最後に終幕となった。

駅前をスタートする選手たち(昭和10年)

3連覇をとげた玉穂青年団

昭和9年になると、2年間ばかり不参加であった玉穂青年団が参加し、7月22日に4時間38分48秒で優勝した。2位は御殿場青年団の4時間56分39秒であった。翌10年も1位・2位は同じで3位に地元の強カチームが入った。つぎの11年には8月2日に行われ、同じく玉穂青年団が4時間38分30秒で優勝し、銀のカップを手に入れることができた。玉穂青年団が連勝した陰には選手たちの工夫と努力があった。とくに太郎坊から三合目までの区間は砂走りでだれもが嫌っていた。上りは千鳥道を駆けるのに人は緩やかな所は勢いをつけ、急な所でへばってしまう。そこで玉穂の選手はそうした人の意表をついて、緩やかなときはゆっくリしたペースで走り充分にエネルギーを蓄えておいて、急坂にさしかかると全力を出して一気に駆けのぼリ、時間を短縮し体力の消耗と時間を節減したという。さらに下るときは、だれもが直線に走って大股のスライド走法をとった。そのため体が不安定となり走りも遅くなったが、その逆に正常歩に近いピッチ走法をとリ体の安定と体童のかかリすぎを防いだという。

3連覇を遂げた玉穂の選手たち(昭和11年)

戦後の幕開け

終戦から数年を経て、食べるのに精一杯だった人達の中からも、朝夕に仰ぎ見る富士山に、かつての登山駅伝を夢見るゆとりが生まれていた。昭和26年8月12目、全国マラソン連盟が主催し、謙売新聞社等が後援して、戦後の第1回富士登山継走大会が開催された。御殿場駅前での開会式では、金栗四三富判長が「世界に誇る富士の峰にオリンピックの夢をのせ、敢闘を祈る」との挨拶があった。昭和29年には全国マラソン連盟によるオリンピック合宿が併せて行われる等、隆盛に向かうかと思われたこの大会も、大会運営の困難さのゆえに昭和30年を最後に立ち消えとなってしまった。

復活富士登山駅伝競争大会

昭和49年の夏、静岡新聞社の「情報往来」に復活の未来展望が取リ上げられ、人々の注目をひいた。更に昭和50年には御殿場陵協の手で綿密な事前調査が行われ、ついに昭和51年4月の御殿揚陸協総会の席上、大会の復活が決議された。昭和51年8月15日、国立中央青年の家をスタート・ゴールとし、山頂を折り返す復活第1回大会が開かれた。役員の大半は初めての経験であり、緊張に顔をこわはらせていたが、最後のチームまで事故もなくゴールするとみるみる緊張がほぐれ、肩をたたきあって成功を喜ぶさまが印象的であった。


富士登山マラソン復活第一回大会のスタート(昭和51年)

復活第二回大会の中継点(昭和52年)
第15回富士登山駅伝競争大会

平成2年8月2日夢であった「秩父宮杯」が宮家よリ御下賜され、陸上競技界での地歩は固まった。中国、韓国、カナダ、アメリカ等海外4カ国を含む86チームの激しい争いの中から、滝ヶ原自衛隊が2位以下に10分近い大差をつけ、3年ぶり通算6度目の優勝を飾った。

秩父宮賜杯

現在の富士登山駅伝競走大会

現在の富士登山駅伝競走大会は、毎年8月の第1日曜日に開催され、御殿場市陸上競技場(標高約580m)から富士山山頂まで(標高差3199m)距離46.97kmを1チーム6名で往復する。トップチームは、往復4時間を切るタイムでゴールします。

PAGE TOP